スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Arthur Clutton-Brock, 'On Friendship' の試訳

アーサー・クラットンブロック(1868-1924)は、イギリスはサリー州、ウェイブリッジ出身のエッセイ作家・ジャーナリスト(Oxford University Press)。イギリスの出版社で働きながら寄稿をちょくちょくしていたらしく、後に評論家としてロンドン・タイムズの社員になったらしい(National Portrait Gallery)。出版されたエッセイ一覧を見てみたところ、文学関係、哲学とか宗教とか芸術とか詩とかについて書かれた文章が目に入るけれど、ガーデニングとか戦争論とか人生論?みたいなものもあって、まあ色々書いている人なんだなあという印象を受けた。
この人のことは、'On Friendship'っていうエッセイで初めて知ったのだけれど、その文章の特徴と言ったら、使われている単語がとても簡単で読みやすく、且つ含蓄の深いことを言ってくる。不思議なことに、クラットンブロックが死んでから50年はとっくに過ぎているのに、未だに日本語の翻訳本が出版されていないみたい。これは残念、という訳で、ここでひっそりと試訳を公開しようと思う。ひとまず件の 'On Friendship'を。


「友情について」 A. クラットン=ブロック

友情は、理屈を超えたところにあります。自分の友達の良いところを見つけてたとしても、それはその人と親しくなってからのことなのですから。友情は贈り物で、私達がそれを贈るのは、そうせねばならないからという外はありません。良いところを見せてくれるお返しに友情をやろうとすれば、友情に値段をつけることになるでしょうし、そういう人達には、与えるべくして持っている友情など無いのです。自分には人徳がある、そして人徳のある友達が欲しいのだ、という動機で友達を選ぶとしたら、金をくれるからという理由で選ぶのと同じくらい、真の友情から遠ざかってしまいます。それにしても、自らの友情にせっせと値段をつけているとは、いやはや何者なのか。どんな人であっても、友達を作るという神秘の力があれば十分ですし、自分の友達となる人を決めるのはその力に任せるべきです。徳のある人を選って友達にしたとしても、その人が自分を選んでくれることはきっとないでしょうから。というのも、友情は作為があって選ばれるようなところでは決して育まれないからです。友情とは眠りのようなもので、やって来ないかとひたすら思っているような時にはやっては来ません。ふと、気が付けば友情が芽生えていた、その時には、疑心を持たず、素直に喜んで感謝すべきです。

ですから、友情とは何たるかを心得ている人ならば、友達が無作法な奴だと発覚したからといって仲を絶つなどはしないでしょう。そのように心得のある人が仲を絶つということは、相手への思いやりを捨てているというただそれだけであって、そういう時その人は、情愛をこんなにも酷く枯らしてしまった、と自らに憤慨するはずで、友達が無礼な人間だと証明されたことでその友達に憤慨する、ということはきっとないでしょう。何故かと申しますと、彼奴など我が友情をかけるに値しないと言うのは、たとえどんな相手を評してであっても、乱暴な憶測というものであるからで、それはちょうど、ある女性との恋が冷めてしまって、あんな女、愛してやるに値しないと言うようなものです。友情や恋愛においては、教養ある人はいつだって謙虚に振る舞います。それらが対価を求めずに贈られてきたとはっきり分かっているからです。絶交や失恋をすることでそのような謙虚さを失くすこと、これすなわち本来なら恥じ入らねばならぬことをむしろ誇らしく思ってしまうことです。


社会がうまく機能するために必要な何らかの審判や処罰があって、人は時にそれらを下さなければならなかったり、蒙ったりしなければなりません。そうして私達は生き続けるのです。ところがそうなると、友情はまるで友情とはいえない代物になります。審判を下したり罰を受けたりが、私達の実生活の一部になってはいないと、友情から教わり知ることがあれば話は別ですが。審判や処罰はそうあって然るべきでしょう。そうして、私達は他人にお金をあげて、豪華なかつらと緋色の衣装を身に纏わせると、その人達がまた更なる他人について審判を下すよう促します。このように誘惑されるせいで、私達は自ら進んで審判というこの遊びを始めてしまいます。たとえ誰かからお金を貰って頼まれたりせずともそうなるのです。審判を下すということがいかに冷たいものであるか、審判を下して喜ぶことがいかに愚かであるか、それは友情というものが与えてくれるあの温かさに包まれて初めて分かるものです。何故ならこの温かさが、確固とした善、つまり私達に元から備わっている豊かさであると私達には分かるのであり、他方で私達を明け暮れ審判に向かわせるかの冷たさが、私達に元から備わっている貧しさとも分かるからです。芸術作品への非難は、作品が与えてくれる影響を遮断して初めてなされます。それと同じで、友達への非難もまた、友達が与えてくれる影響を遮断して初めてなされます。その時は最早、肝胆相照らす仲にあり続けることは出来なくなっています。ただし、この非難が無害である場合も存在します。私達がそういう非難をそういうものとして自然な反応に過ぎないとか、温かいものの後に発作的にやって来る冷たさであると受け止めてやる場合、それから、温かくしてあげるよりも冷たくしてやることの方が賢明であると推測したりしない場合です。

自分の友達は完全無欠な人間であるという絵空事にとりつかれた時だけ、仲良くしてくれるような人達がいますが、その人達は絵空事から目を覚ました途端、縁を切ってくるものです。ですが真の友情には絵空事はありません。何故なら、その友情は相手の不完全なところとは全く関係の無い心の領域に到達しており、そうしている間、相手の不完全さは全て当たり前のことだと受け止められるからです。そういう仲にある二人には、相手が他人よりも優れた人物だという想定さえありません。そのような想定は傲慢さを孕んでいるからです。ある人が自分の友達であるのは、その人が卓越しているからではなく、自分の性分と相手の性分とに通じ合う何かがあるからで、その通路は自分と大多数の人間の間では閉ざされているものです。お互いを理解し合うということについては、こんな名言があります。親交を結んだら、それは数多の失敗の中の稀有な成功であるが、その成功を誇らしく思ってしまったなら、驕りであると恥じ入らねばならない。

友達が何らか逸出したものを持っているということで交友関係にあるのだと説明する、この傲慢さほど友情にとって由々しきものはありません。もしそれを実行してしまったら、連中の仲間入りを果たしてしまいましょう。どのような連中か。全員が、相手の美点を褒めちぎりながら自分の美点を仄めかすとともに、自分が与えてばかりいはしないか、貰うよりも多くを与えてはだめだ、と気を揉んでいるような連中です。友達を徳の高い人物だと力説すれば、今度は友達の方が自分を徳の高い人物だと力説してくれることを期待することになるからで、そうなると両者の間には、友情を安息ではなく重労働にさせてしまう競争が始まります。すると非難は裏切りになります。友情を成り立たせている優越性を疑い出していることが、非難によって分かってしまうからです。しかし、優越性をそもそも想定したりしなければ、非難は自然に沸き起こって来る好奇心の働きに過ぎません。それは何故かと言えば、友達だからです。相手について好奇心を持つくらい相手のことが好きで、相手のことをよく知っているのです。実は相手の専門家になっているのであり、相手について自分がどれだけ詳しいかをいつも見せていたいと思っています。また専門家になれるのは、友情の与えてくれる温かさで相手の虚栄心が融け去り、ありのままの姿を示してくれるからです。もっと言うと、それは友情の試験であり、友情が与えてくれる喜びです。実際よりも低く思われてはいないかと恐れることは最早無いので、私達は自分を良く見せようと必死になったりはしません。友情をもたらしてきたのが徳ではないことを私達は今や心得ています。それに、自らの悪癖を洗いざらい曝け出してしまうと友情が失われるのではと恐れたりもしません。私達はこの人生において辿り着ける他のどんな所よりも天国に近い場所に辿り着き、そこで祝福を受けます。祝福を受けた境地では、情愛が審判に左右されることはありません。まるで神様のようです。神様は全知全能ですから、許すということすら不要です。そんな境地に至るのは稀なことです。それに、完璧さを求める交友関係では決して到達することはありません。友情の何たるかを心得、本気で友情を望むこと。そして特に、自分の友達であるその人を認めてやり、決してその人の友達選びに驚いて不思議がったり、その人の友達らがたとえどんな悪事を働くか知れぬとしても、その人が彼らを信じているのを弾劾したりしないこと。そうして初めて、私達は祝福の境地に近付くことが出来るのです。



引用文献
・Oxford University Press: Brock, Arthur Clutton- (1868-1924), essayist and journalist, Oxford Index A Search and Discovery Gateway (online) available from <http://oxfordindex.oup.com/view/10.1093/ref:odnb/32459> (accessed 2015-12-26).
・National Portrait Gallery: Arthur Clutton-Brock (1868-1924), Essayist, critic and journalist, Search the Collection (online) available from <http://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp00932/arthur-clutton-brock> (accessed 2015-12-26).

コメント

非公開コメント
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。